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  |  |  |  |   |  |  |  |   |  |  |  |   |  |  |  |   | 2012/01/18 11:38:02 プライベート♪ |  |   | なし |  |   | 原発事故から逃れて(続) |  |  
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            ★震災から間もなく1年が過ぎようとしている。 昨年、嘗ての職僚が原発事故により避難を余儀なくされ数カ所を転々とし今、原発から60キロ離れたΚ市内に一人住い。小生が訪れた時、(株)東京電力から送られた「賠償請求書」を書いていた。最近彼からその後の状況について知らせてきた。再び紹介する。
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  ★7月16日。 いよいよ一時帰宅が決まる。(^_^)  あれから4カ月、私の町役場はΚ市(現避難場所)の西60キロのΑ市に仮設されている。遠隔にある私にはこの情報が役場から直接届かず、たまたま一時帰宅の輸送を受託しているバス会社からの問い合わせがあり、はじめてその時機を知る。
  ★当日、中継地点のT市体育館に向け午前9時出発。 10時過ぎ受付開始、「立入許可書」など所要の書類照合。 この日の一時帰宅者は総勢500人余。4ヶ月ぶりに知人達と会う「体調のこと、避難場所のこと」など話しかけたが、皆言葉少なく不安な顔をしている。 11時、昼食が配られたのちこれからの行動予定の説明がありいよいよ出発。
  ★T市の警戒区域に入る。田畑は雑草が茂り集落はひっそりとして不気味。 峠を過ぎて我が町に入ると草の生い茂る田に飼い主が置いていった牛30頭から40頭ほどが群れていた。増築中の町立保育園は工事の足場がそのまま、また、JR線の線路は真っ赤に錆びている。列車は再び通るのだろうか。(-_-) 暗澹たる思いの中、我が町の集落に着く。バスが停まり、トランシーバーを受け取り下車。防護服を着て我が家へ向かうが何故か近づくのが怖い。    門口の生垣は伸び放題、庭は土が見えないほど草が茂っている。
  ★我が家の前に立ち鍵を入れる。「カチン」、あの日以前のままの音。 戸を開けると家の匂いがする。荒らされた様子はない。仏壇に手を合わせる。 亡妻の琴は倒れたまま、ほかの家具も倒れたまま、食器類は滅茶苦茶だが、片づける時間は無い。写真など欲しいものがなかなか見つからず時間が気になり焦る。 持ち帰るものを玄関上がり口に並べた。汗びっしょりになって温度計を見ると31度を超えていた。
  ★先祖代々の位牌は仏壇の奥にあるが、家の魂が消え失せ、故郷との絆が断ち切れてしまうような気がして持ち出せなかった。無念の涙がこぼれた。 そして玄関を出て鍵を掛けた。80歳の私が再び生まれ育ったこの屋敷に足を踏み入れ戸を開けることはないだろう。(*_*)
  ★バスの駐車場所に戻った。バスの中の人達はそれぞれが袋を抱え何を思うのか殆ど会話はなく係員の声だけが響く。「これからどうなるのだろうか、何処でどう生きてゆけばいいのだろうか」そんな声だけが聞こえた。 バスは発進し帰路に、途中墓地に一時停止した。墓石は全て倒壊、綺麗に手入れをされていた面影はなく草茫々に荒れていた。涙を拭っている者もいた。
  ★T市体育館に戻る。体のスクリーニングを受ける、異常なし。 預けた荷物と軽食を受け取り出口に来たが同乗した隣人達とは会うことはなくその絆は消えた感じがした。自車を置いた駐車場まで東電の車両にて移動。
  ★酷暑の中、家族に助けられての一時帰宅も無事に終り午後6時過ぎ避難場所(K市)に帰った。空しさと悲しみが残つた。                      ************************
  ∇福島県は国などの支援を受けて「除染」に取りかかりつつあるが、その進捗状況は遅々としている、特に「除染」のため取り除いた「土」の一時保管場所がなかなかか決まらない。 まして永久保存場所に至っては皆目不明である。 したがって原発から20キロ圏内(警戒区域)の町村の住民の帰省は当分期待できない現状にある。また、県内の農産業・漁業に対する風評被害も深刻な問題である。
  ∇先日は、新築マンションの土台に放射線があることが解った。原発の近接地域で採取した石の砕石を使用したコンクリートが原因のようである。その居住者は原発事故から今日まで数回避難を続けやっと落ち着いた方々とのこと。さらに避難をしねければならないとは、ただ「無情」。また今後このマンシヨンはどうなるのか。
  ∇千年に一度の震災は自然災害にとどまらず、予測できない人災的なものがいろいろな方面に広がっていくような気がしてならない。福島県民のおののきは何時まで続くのか。
                       ☆原発から西へ60キロにて
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
          
            
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  |  |  |   |  |  |  |   | 2011/10/15 15:43:20 プライベート♪ |  |   | なし |  |   | 大震災と原発事故 |  |  
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             過日、福島県の第一原子力発電所から西5キロに住んでいた嘗ての職僚を尋ねた。彼はあの凄まじい地震と津波と原発事故に遭い、その後どう過ごしたか。 彼の手記(一部)を紹介する。           * * * * * * * * * * * * * * * *           ★激震と家の中
     (3月11日午後3時41分・原発1〜3号機故障)
   3月11日午後2時40分頃、一人暮らしの私は洗濯物を取り込み、アイロン台を出そうとしたとき大きな横揺れがきた。大震災の始まりである。 神棚のお札が部屋中に飛び散り、奉榊瓶と仏壇の花瓶が倒れ水が畳に散る。電灯の傘も落下。呆然として柱を背に立ち往生、揺れの収まりを待った。その後台所を見ると電子レンシが床に落ち食器棚は中のものがすべて落ち毀れている。また、長押の先祖の遺影は落ちてガラスが割れ足の踏み場もない。テレビは消えていた。 外に出てみた。屋根瓦は幸い無きず、左となりの家の石垣は崩れ我が家の出入り口を塞いでいる。それから墓地に行ってみたが、我が墓石を入れて50本ほどある全て倒壊していた。このとき防災無線による津波警報が聞こえた。 「海岸に住む人は中央体育館に避難を」と報じていたが、体育館は原発から2キロの地点、避難した人達はそのまま原発避難へとなった。 後日知ったが、海岸から1キロの神社、隣接する新築した集会所ともに流失した。
  (同日午後9時30分・1号機の半径3キロ避難命令、3〜10キロ屋内待機指示)  
   ★原発事故と逃避行
   (3月12日午後3時16分・原発1号機水素爆発)
   3月12日昼、役場の車が来た。「早く乗れ!早く乗れ!」これが私の終わりの住処である。我が家と納骨(妻)予定の墓地との別れである。10分後、役場に着くと辺りには関東方面のナンバー付き大型バスや自衛隊車両がいっぱい、その数50台余り。 その後私の乗ったバスは県中央にあるK市方向へ。だが、スムーズには動かず、避難する乗用車、大型バス、町民を乗せた自衛隊車両などが数珠つなぎである。 実はこの道路、原発事故に備え工事中、加えて地震による損傷の箇所があり、1時間の行程を3時間を費やしてF町公民館に着いたがそこは避難車両でごった返していた。その後待つこと30分、夕闇が迫っていた。次の移動先M町の運動場へ、さらに30分後目的地の町立N小学校体育館に着いた。時に午後7時半だった。 同体育館には、寝具類、暖房器具が備えられ照明も明るい。それぞれ寝場所を決めホットして毛布に座り、現地自治体の努力に感謝した。 そして夜9時ごろ、おにぎり2個、カップ味噌汁1個が配られた。「これらを用意してくれたのは誰なのだろう」不安と寒さの中で思わず涙がこぼれた。 10時役場の職員(4人)が体調などの聴取り、名簿作成のための記名がはじまる。 中には誰が何処へ避難したか皆目わからない人がいる。お母さんは? 奥さんは?と尋ねるもわからない。またある若い奥さんはご主人が仕事場から避難したが、いまだ何処にいるかわからない。なとなど不安いっぱいの体育館であった。私も別居の家族(娘夫婦)に再三電話したが不通、世の中将に混乱の最中当然のこと。そして大きな余震が続く。
   ★家族の迎えと不安なこれから
   3月13日午前9時、未だ家族と不通。 10時ごろ、ようやく役場の職員が家族に連絡をしてくれ昼ごろ迎えに来た。涙。 それはこの夫婦に申し継ぐべきもの全てなくなった悲しさからであった。 着の身着のままで出てきたが、我が家に残した家財、また庭の樹木はどうなるだろうか。先祖と妻の位牌・遺影だけは手にしたい。今、我が町の隣人達は誰が何処にいるのかわからない。町はどなってしまうのか。寂しさと哀しさと恐ろしさが交錯する。
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   震災から7カ月が経ったが、現在彼は猪苗代湖の東に隣接するK市内に一人生活している。最初の避難所から移動すること県外も含め5度目の場所である。 これからについて先ずは東電から送られて来た「賠償請求書」の作成に取りかかっているが、はたして満足する補償が得られるかどうか。    福島県は国道4号線の東側地域はほとんど放射能に汚染され、その除染には膨大な時間と費用がかかる。特に彼の町は原発に隣接し、高濃度の汚染地であり帰町は何時になるのかその目途は立っていない。そして彼はまもなく齢八十路である。
 
          
            
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  |  |  |   |  |  |  |   | 2011/08/31 17:21:56 プライベート♪ |  |   | なし |  |   | 原発と原爆 |  |  
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            ☆震度6強の地震は過去4たび経験しているが、立っていられないほどの揺れは初めてて゛あった。 千年に一度の地震は将に想定外の津波を生じ一瞬にして原発の機能が破壊され水素爆発を起こして放射能が周辺地域に飛散した。 この大震災から半年が過ぎようとしているが、原発事故は未だ収束せず何時になるかも明らかでない。原発近傍の住民は放射能という不可視の危険物を避けるためやむなく住み馴れた土地を離れ各所に避難している。そして再び戻れるかどうかも定かでない。 安全クリーンな原発を信じてその建設を受け入れ、多額の交付金と多くの雇用を得て近傍の町村は潤沢な生活を送っていた。しかし、想定外という津波に脆くも機能不全となりかつ、住民は放射能というとんでもない危険に晒されることとなった。
  ☆さて、今年も66回目の原爆忌が巡ってきた。 当時、米国は太平洋戦争の早期終結を図るため原爆を使用したが、長崎、広島両市合わせて死者40万人を超える惨劇となった。 時の政府は核兵器の威力を知ることも被爆回避に努めることもなく、さらには戦後国民に対する戦争責任を誰一人負うこともなく戦勝国による国際軍事裁判をもって終止符が打たれた。 それから半世紀あまりが経ち核兵器廃絶の国際機運は高まっているが、現実は殆ど進展していない。むしろ核保有を外交の道具にしている国さえある。 また、原爆の被害を受けた方々は国家賠償も不十分のまま高齢化し、遠い昔日の出来事ととしてその記憶も薄れつつある。
  ☆戦後、核エネルギーを戦争の道具ではなく平和産業のために利用することを目的に原子力発電が生まれた。 世界初の被爆国においても核エネルギーによる電力施設が全国各地に建設され今日に至っている。その背景には火力、水力による発電能力に限界がありかつ、高度経済成長化に伴い大きな発電量が必要だったからと聞く。 しかし、平和利用のための核エネルギー施設が人為的とも言える事故によって人々は再び被曝の憂き目に遭うこととなった。 放射能汚染が10年先、20年先、人々とその土地にどのような影響が現れるのか、近傍の住民は全く予測がつかず、日々不安な時を過ごしている。先ずは一日も早い収束を願うばかりである。
  ☆戦後の困窮から豊かさを求め世界第二の経済大国を謳歌したがその裏には大きなリスクがあることを知らされた感がある。「好事、魔多し」か。
                         原発西方68Kmにて
 
 
 
          
            
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  |  |  |   |  |  |  |   | 2010/06/04 17:10:46 プライベート♪ |  |   | なし |  |   | 沖縄のこと |  |  
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            ★1945年(昭和20年4月)、兵力約55万人の米軍艦船は沖縄本島中部西海岸に上陸。 一方日本軍は兵力約10万人、圧倒的な戦力の差であつたが約3カ月抗戦し、全滅。
  ★時の軍司令官牛島将軍は大本営(東京)に戦闘終結報の打電をした際「沖縄の住民に対し格別のご配慮を」との一文を残し自決した。その後広島、長崎に原爆投下日本は降伏、以後沖縄本島は27年間米国の占領地となる。
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  ★過日、沖縄の米軍基地移転問題で政治が揺れた。この問題の原点は65年前の「沖縄戦」にある。さらに遡れば1941年12月8未明、ハワイ真珠湾の米艦隊奇襲攻撃を緒戦とした太平洋戦争だ。
  ★100年前、日本は当時世界最強の軍事大国ロシヤと戦った。時の政府は巧みな外交により国際社会の支援を確保し「勝ためのシナリオ」を画いて開戦し勝利した。 それから40年後、太平洋戦が勃発。
  ★近代戦の勝敗は当事国の国力の差つまり「弾薬と燃料」の生産能力の差にある。 太平洋戦に際し日本は国際社会から孤立した上、勝算の青写真も画くことなく開戦に突入。当初は破竹の勢いで進攻したが、戦闘消耗が重なるにつれ米国の圧倒的な軍事力には抗し難く戦闘能力の限界を越え敗れた。 目的も勝ち目も不明確な戦によって様々な悲劇と問題を生み、半世紀を経た今その「つけ」の一つが沖縄の「米軍基地移転問題」であり戦後の後遺症である。
  ★両大戦時の政治家を見ると日露戦は明治維新を創生した人達であり、一方太平洋戦の政治家は明治生まれの世代である。国難に際して両者の対処のあり方に格段の相違があるのは何故だろうか。日露戦後半世紀の間に政治家の資質が劣化したのだろうか。さて、吾々の選んだ政治家は如何か。           (この文を書いているとき鳩山総理辞任が報じられた)
 
                       (太平洋戦参戦少年兵の回顧)        
            
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  |  |  |   |  |  |  |   | 2010/04/01 17:52:04 プライベート♪ |  |   | なし |  |   | 冤 罪 |  |  
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            少女殺害の罪により17年間服役、過日、再審により無罪が確定した。司法は賠償を行うであろうが、本人が被った無為の17年間は再び戻らない。
  報道によれば、犯人である決め手はDNA鑑定とのことである。しかしその信憑性は100%ではなくかつ本人のものではなかったことにより再審無罪となった。 そこで疑問。他の証拠はどうなっていたのか、たとえば事件前後の本人の行動、殺害に使用した物件などはどう扱っていたのか。また、当時の刑事、検察官の立証のあり方、特に自白重視の傾向はなかったのか。そして弁護士は検察官の立証の問題点(信憑性)を指摘できなかったのか。さらに、長時日をかけた裁判において裁判所は真実の追究をどのように行ったのか。 要するに当時のDND鑑定を絶対の証拠としたところに誤審の原因があるとした事件である。 人が人を裁くことの難しさはあるがしかし、冤罪による本人の人生損失の大きさは測りしれない。         
            
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  |  |  |  |   |  |  |  | 八十路 |   |   |  |  |   |  |  |    |  | 性別 | 男性 |   | 年齢 | 86歳 |   | 誕生 | 10月16日 |   | 星座 | てんびん座 |   | 血液 | B型 |  
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  |  |  |  |   | 身長 | 165cm |   |   | 体型 | 普通 |   |   | 職業 | 無職 |   |   | 地域 | 福島県郡山市 |   |   | 趣味 | 書道(所属書道会・公認教授) |   |   |   | 自己紹介 |  |
  | 1941年太平洋戦争少年軍人として 体験元陸上自衛官 |  |
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